3月にかけて「放射線を浴びたX年後」シリーズの上映会が各地で行われました。1954年アメリカが行ったビキニ水爆実験。多くの日本の漁船が同じ海で操業していたのにもかかわらず、「第五福龍丸」以外の被ばくは歴史から消えようとしていました。
「あったことを、なかったことにしないために」
闇に葬り去られようとした被ばくの事実を掘り起こし、高知県内の漁師さんたちの「声」を記録、映像に残したのが「放射線を浴びたX年後」シリーズです。
3月15日(日)東京都新宿区立戸山生涯学習館1Fホールにて、「放射線を浴びたX年後2」の上映会が行われました(主催は新宿女性九条の会)。当日は監督ではなく、都内在住で主演の川口美砂さんによるアフタートークが行われました。

きっかけは帰省の時に観た「X年後」
都内で広告代理店を営む川口さんは、2013年夏、高知県室戸市の実家に帰省していました。
「8月16日に東京に最終便で帰る前に、妹が『お姉ちゃん、漁師のおんちゃんたちの映画が今日あるから見に行かん?』って誘ってくれて、『放射線を浴びたX年後』の上映会に二人で出かけました。ビキニ環礁での水爆実験で被ばくしたのは焼津の第五福龍丸だけ、と思っていたので非常に衝撃を受けました。高知船籍を含む全国のマグロ船が被ばくしていたのです。父はマグロ漁船の船乗りでした。船乗りの子として室戸で生まれ育った私が、この日までこの事実をまったく知らなかった。その時にまず思ったのが、よくこういう記録映画を作った方がいらっしゃったと。 しかも愛媛の放送局のディレクターが高知まで足を運んで一生懸命取材されていた。ところが、映画にも描かれているように、漁師さんの家を訪ねても歓迎されるどころか、『何しに来たんだ、帰れ!』などと怒鳴られていたように、大変ご苦労されている。 それでも一生懸命映画を作り上げた。伊東監督にまずお会いしたい、その場にいた配給宣伝の担当者に『秋に一度だけ東京で上映会がある』と教えてもらい監督につないでもらいました」
と、運命的なドキュメンタリー映画との出会いを教えてくれました。「室戸出身の自分だったら難航している取材に協力できるかもしれない」と川口さんは申し出て、続編の収録がスタートしました。ところが、そうは問屋が卸しません。
「おんちゃんたちの家に行っても『もう今更遅い、今話を聞いてどうするんや』と言われて、ほとんど追い返されてしまいました。それでも根気よく訪ねると、少しずつ話を聞かせていただけるようになりました」と、川口さんがおんちゃんたちとの距離を少しずつ縮めていくなかで、漁師さんたちの抱える苦悩が見えてきました。
結婚、子孫への影響を懸念「船員手帳」を破り捨てた

(「X年後2」の内容をもっと知ってもらうために、少しダイジェストで抜粋します。以下、一部ネタバレ)
映画の中で元・合栄丸漁労長の山田勝利さん(取材当時77歳)が言います。
「ビキニの事故が起こった時にデマがとんで、結婚の問題で子孫に(どんな影響が出るか)わからない。それで、船員手帳の(1954年のページを)破ったんですね。それで本籍を変えて別のところに住んだ。海の話は一切しない」
船員手帳とは船員の身分証明書のようなもので、船員の履歴や健康証明が記録されています。元・室戸鰹鮪漁業船主組合職員の岡崎江津子さんも不思議な光景を思い出していました。
「私、船主会に勤めていた時に、保険の係だった。船員さん全部知っている。120隻くらい船あったから。漁労長が変われば保険(証書)を作る。時々言っていたのは、雇い入れする時(船員手帳に)なぜか破ったページがある。『これ何やろね?』と言った。昔、そんなことがあった」
「(きのこ雲が)バンと光って空一面に映えて、皆、陸に上がっても家族に話したくないし」(山田さん)
「(核実験中に)被ばくしたからといって必ずがんになって死ぬわけではない。今でも生きている人がいるから。(核実験中に)即死んだ人もいる。それはその人の人生。それが60年経って今さらどうして放射能だ被ばくだという話になった時、昔の話をして何の意味があるかと思うとわたしの中でモヤモヤする」(岡崎さん)
川口さんは聞き取りを続けるなかで、「(おんちゃんたちは)口をつぐんでいたけれども、どれだけ危険な目に遭っても補償はまったくない。3.11 のあの放射能の怖さ(福島第一原発事故)のニュースを見たり聞いたりしていた頃から、少しずつ口を開いてくださったという印象がありました」と、おんちゃんたちの変化に気づいていました。
川口さん自身も、元漁師だった父・一明さん(享年36歳)の早過ぎた死に疑問を抱き始めます。死因は心不全でしたが、周囲からは「お酒の飲み過ぎで早死にした」と、よく言われたそうです。一家の大黒柱を突然失ったのはまだ小学校6年生(12歳)の時。母と妹、三人で暮らしていくため、川口さんは高校卒業するまで、同級生の父が営むスーパーなどで春夏冬の休みにアルバイトを続けました。
そして取材班は「核実験を3回目撃した」という乗組員を訪ねました。高知市の介護施設に入居していた元・司丸乗組員の大西恵五さん(取材当時83歳)です。
一番大事な息子を失った
「音は聞いたと思うけど灰が降ってきてのは見ていないけど、頭の上は灰だらけだった。その後すぐに海の上が真っ黒になってしまった。灰混じりの土かなんかが飛んできた」と、ベッドに腰掛けながら大西さんはゆっくりと話し始めました。1858年新伝丸に乗っていた時のことでした。
大西さんは見た核実験は58年35回の核実験を行った「ハードアタック作戦」と62年「ドミニク作戦」です。
「その時も夕方にお日様が水平線に消えていったら(きのこ雲が)ぽこっと出てきた。お日様が割れたと思った。大騒ぎはしなかった。『言うな(騒ぐな)』と言われているから。魚が売れんようになるから(被ばくしたことを)言うなと。浴びていたかどうかはわからない。検査しなかったから。(ガイガーカウンターで)調べにもこない。そのまま。(事件のことを)話し始めてから、ひょっとしたら自分がなるはずのガンが息子にそのままいったかもしれない。わしがマグロ漁師をやめて貨物船に乗った年に(妻が)妊娠して、38年に生まれた。ガンで手術して、すい臓が死んだので人間も死んだ」
「一番大事なものを取っていかれた。それから女房がおかしくなった」
そう語る大西さんの目には光るものが…。一人息子のの恵司さんは41歳でお亡くなりになったそうです。

映画の終盤に新展開がありました。川口さんのお父さんの船員手帳や航海日誌が納戸から見つかったというのです。大学ノート10数冊以上ある「航海日誌」には「キノコ雲」のことについても書かれていました。
〈水爆実験以来、南方の魚には、放射能が多分に含有してその影響で魚の値は暴落し、命がけで働いてきてもたいした設けにもなりません〉
〈4月30日晴れ。航行中無線士が電報を持ってくる。『オンナデキタ。ナマエシラセハハ』とあり、胸のときめきを思い、電報を手にし、自身父親としての責務この上なし。左の如く返電す。「バンザイナマエ『ミサ』トツケラレタシ チチ」〉
川口さんの父は石川啄木の『一握の砂』を愛読していたそうです。太平洋の彼方から伝わる父の胸のときめき。
それとともに、「お酒の飲み過ぎで亡くなったのではない」と確信した出来事がありました。後日、厚生労働省に出向き、個人情報開示請求を行い、お父さんが乗船した船は放射能検査によって魚を廃棄したことがわかったのです。お父さんは被ばくしていた疑いが強まりました。
船員日誌には「体が火のように火照る」と体調不良の様子も綴られていました。

X年後2には高知県南国市在住の漫画家・大黒正仁さん(ペンネーム和気一作)も登場されますが、大黒さんは昨年11月にお亡くなりになり、「上(天国)に行ったらお父ちゃんお母ちゃんにこれを報告するんや」と生前おっしゃっていたように、漫画『放射線を浴びたX年後』を棺に納めたそうです。
決して消え去ることのできない「被ばく」の痕跡。
被ばくに気づくことなく、あるいは気づいていたのに隠し通して亡くなっていった「おんちゃんたちの無念を晴らしたい」とサイレント・フォールアウトの製作につかなっていきます(詳細は書籍『サイレント・フォールアウト』プロローグ参照)。
上映後のアフタートークでは、会場の人たちからの「振り返り」の言葉とともにたくさんの質問もあり、登壇者の川口さんと会場が一体感になったのは久しぶりに見る光景で、私もとても嬉しくなりました。
「サイレント・フォールアウト」とともに、語り継がれるべきストーリーです。公開から10年以上が経っていますから、「観て」「語り継ぐ」ことがなければ、いずれ闇に葬り去られてしまいます。自主上映会もまだ受け付けていますので、ぜひ一人でも多くの人に観てもらいたいと思いました。


